冬の録音

駅前の喫茶店で彼女と待ち合わせるようになったのは、去年の冬からだった。

毎週水曜日、午後六時。

窓際の席。

彼女は大抵、私より先に来ている。

文庫本を読んでいる時もあれば、何もせず外を見ている時もある。

名前は結城という。

三十代半ば。

細い指をした女だった。

私たちは恋人ではない。

元同僚でもない。

学生時代の知り合いでもない。

ただ、ある講演会で偶然知り合った。

地方都市の小さな文化センターで開かれた、「記憶と音楽」という妙なタイトルのイベントだった。

私は暇つぶしで行った。

彼女は最前列に座っていた。

帰り際、エレベーターが故障し、狭い非常階段で二十分ほど閉じ込められた。

その時に話したのが始まりだった。

「音楽って怖いですよね」

彼女は唐突にそう言った。

「怖い?」

「昔の曲を聴くと、その頃の自分まで戻ってくるでしょう」

私は少し笑った。

「ありますね」

「あれ、不思議です」

彼女は階段の窓から外を見ていた。

「人間って、本当は時間の中に閉じ込められてるのかもしれない」

変わった人だと思った。

だが嫌ではなかった。

それから時々会うようになった。

私たちは、いつも曖昧な話をした。

最近読んだ本。

子供の頃の記憶。

知らない町の話。

どちらも仕事の話はほとんどしない。

私は印刷会社で働いている。

結城は翻訳の仕事をしていると言った。

それ以上は聞かなかった。

会話が楽だったのである。

沈黙していても苦にならない。

そういう相手は珍しい。

二月のある日、彼女は小さな録音機を持ってきた。

銀色の古い機械だった。

「まだ使ってるんですか、そういうの」

私は笑った。

最近はスマホで十分だ。

だが結城は真面目な顔をしていた。

「こっちの方が安心するので」

彼女は録音機をテーブルへ置いた。

「音って、消えるでしょう」

「まあ」

「でも録音すると残る」

彼女は少し考えるような顔をした。

「残るって、不思議です」

私は曖昧に頷いた。

彼女は時々、こういう話をした。

時間。

記憶。

消えるもの。

最初は文学趣味かと思っていたが、だんだん違う気がしてきた。

結城は、妙に具体的なのである。

まるで、本当に時間の外側を見たことがあるみたいに。

三月になる頃、私は彼女について奇妙なことへ気づいた。

彼女は、過去形をあまり使わない。

「昔、旅行したんですか」

と聞く。

すると彼女は、

「旅行してます」

と答える。

「去年読んだ本ですか」

「読んでます」

最初は癖だと思った。

だが毎回そうなのだ。

時間感覚が少しずれている。

私はその違和感を、うまく説明できなかった。

ある雨の日、喫茶店が空いていた。

窓ガラスに水滴が流れている。

結城はコーヒーへ口をつけながら言った。

「もし、自分の人生を全部録音できるとしたら、聞き返しますか」

「全部?」

「生まれてから死ぬまで」

私は少し考えた。

「嫌ですね」

「どうして」

「恥ずかしいから」

結城は笑った。

珍しく声を出して笑った。

「人間らしい答えですね」

「人間らしい?」

「あ」

彼女は少しだけ困った顔をした。

「変な意味じゃなくて」

その時、私は初めて思った。

この人は、もしかすると、どこか壊れているのではないかと。

だが同時に、強く惹かれてもいた。

春になる頃には、私たちは週一回以上会うようになっていた。

海へ行った。

古本屋を歩いた。

映画も見た。

だが結城は、どこか現実感が薄かった。

例えば映画館を出たあと、普通なら感想を話す。

俳優がどうとか、結末がどうとか。

だが彼女は違う。

「この映画、あと三回ぐらい現実になりますね」

そんなことを言う。

意味が分からない。

だが本人は真剣だった。

五月の終わり、私はついに聞いた。

「結城さんって、何の仕事してるんですか、本当は」

彼女は少し黙った。

窓の外を電車が通過していく。

「観測です」

「観測?」

「記録とも言います」

「何を?」

彼女は私を見る。

その目は、妙に静かだった。

「あなたを」

私は笑った。

冗談だと思ったのである。

だが結城は笑わなかった。

六月に入ってから、私は奇妙な夢を見るようになった。

白い部屋だった。

窓がない。

機械音だけが聞こえる。

そして部屋の中央に、私自身が横たわっている。

眠っている。

その周囲を、結城が歩いている。

彼女は銀色の服を着ていた。

見たこともない服だった。

「まだ安定しています」

夢の中で、彼女は誰かへ話しかけていた。

「感情反応も正常」

私はそこで目を覚ます。

汗びっしょりだった。

最悪なのは、その夢に妙な現実感があることだった。

まるで記憶みたいなのだ。

私は疲れているのだろうと思った。

だが、その頃から現実にも違和感が増え始めた。

通勤中、同じ顔の人間を何度も見かける。

昨日聞いた会話を、別の場所で再び聞く。

時計が数秒戻る。

些細なことだ。

だが積み重なると気味が悪い。

ある夜、私は喫茶店で結城へ言った。

「最近、変なんです」

「何が?」

私は話した。

夢のこと。

時間のズレ。

同じ光景を繰り返し見ること。

結城は黙って聞いていた。

そして静かに言った。

「崩れ始めてるんですね」

「何が」

「あなたの時間が」

私は苛立った。

「意味が分からない」

「でしょうね」

彼女は悲しそうに笑った。

「本当は、もっと早く終わる予定だったので」

「何を言ってるんですか」

結城は録音機を取り出した。

机へ置く。

カチ、と再生ボタンを押した。

ノイズが流れる。

そして声が聞こえた。

『被験体二十七、安定化成功』

女の声だった。

結城の声だ。

『記憶構造に大きな破綻なし』

『寿命予測、約十一ヶ月』

私は凍りついた。

『終了後、回収予定』

録音が止まる。

店内ではジャズが流れていた。

隣席の学生が笑っている。

普通の夜だった。

だが私だけが、急に世界から切り離された気がした。

「何なんですか、これ」

結城はしばらく黙っていた。

それから、小さく息を吐く。

「あなたは、人間じゃありません」

私は笑った。

笑うしかなかった。

「頭おかしいですよ」

「ええ」

彼女は静かに頷く。

「あなたから見れば」

私は立ち上がった。

だが足が震えていた。

「帰ります」

「待って」

彼女は初めて、少し焦った声を出した。

「あなたは観測用に再生された人格なんです」

「やめろ」

「本体はもう死んでます」

私は彼女を睨んだ。

だがその瞬間、頭痛が走った。

激痛だった。

視界が歪む。

店内の音が遠ざかる。

そして私は見た。

白い部屋。

機械。

横たわる男。

私だった。

その顔は、ひどく老いていた。

酸素マスク。

痩せた腕。

死にかけの顔。

『記録開始』

誰かが言う。

『人格保存シーケンス起動』

私は椅子へ崩れ落ちた。

息ができない。

結城がこちらを見ている。

その目は、ひどく疲れていた。

「あなたは、死ぬ前の人格記録なんです」

「嘘だ」

「百年前の」

私は何も言えなかった。

百年前。

頭が理解を拒否していた。

「人類は、死者の人格を短期間だけ再生する技術を作りました」

彼女は続ける。

「でも長く維持できない」

「じゃあ私は……」

「記録です」

結城は静かに言った。

「あなた自身の記憶から生成された、一時的な人格モデル」

私は周囲を見た。

喫茶店。

窓。

夜の駅前。

全部、本物に見えた。

「じゃあ、この世界は」

「再現環境です」

私は吐きそうになった。

「なんで、そんなことを」

結城は少し黙った。

「あなたが望んだからです」

「え?」

「死ぬ前に」

彼女は録音機を撫でる。

「最後に、もう一度だけ普通の人生をやりたいって」

私は記憶を探った。

だが何もない。

ただ、妙な感覚だけが残っていた。

疲労。

孤独。

人生をやり直したいという願い。

「だから、あなたを再生しました」

「誰が」

結城は答えなかった。

その代わり、小さく笑った。

「でも予定外でした」

「何が」

「私が、あなたを好きになったこと」

私は彼女を見た。

その瞬間、世界の輪郭が少し崩れた。

窓の外の光がノイズになる。

人々の声が途切れる。

終わりが近いのだと、なぜか分かった。

「あなたは何なんですか」

私は聞いた。

結城は少し考えた。

「監視役です」

「人間じゃない?」

「たぶん、もう」

彼女は笑う。

「でも、あなたと話してる時だけ、少し戻れる気がしました」

私は黙った。

喫茶店の壁が揺らいでいる。

時間切れだった。

私は急に理解した。

最初から違和感はあったのだ。

彼女は過去形を使わない。

時間を一直線で見ていない。

彼女にとって、私は既に死者だったからだ。

「もう終わるんですか」

私は聞いた。

「はい」

「怖いな」

「ええ」

結城は頷く。

「人間らしいです」

私は少し笑った。

窓の外が白く消えていく。

喫茶店も崩れ始めていた。

最後に、私は聞いた。

「本当に、好きだったんですか」

結城は少しだけ泣きそうな顔をした。

「観測記録には、そう残します」

その瞬間、世界が消えた。